お盆に想うこと

お盆

もうすぐ盂蘭盆会(うらぼんえ)。略してお盆。
純粋だった少年時代はお盆の意味さえ知らず、玄関先で焚く迎え火と送り火が不思議で「花火でもやるのかな?」と思っていた。
女の子に夢中だった青年時代には「先祖が帰ってくるなんて非科学的で馬鹿げている。それより海でナンパだ」と思っていた。
しかし加齢臭が漂い始める中年になると「年に一回でもお袋が帰ってきてくれば」という思いが芽生え始めた。

迎え火

迎え火

そして都合の悪いことだけを忘れるようになった初老のいま「もしあの世があって、私が向こう側に行ってから家族が迎え火を焚いてくれなかったら…」と自分の帰省拒否を心配するようになった。
このまま後期高齢者になったら「お盆はあの世で酒池肉林を楽しもう!」と信心深い“ボケ老人”になるだろう。
 むかし瀬戸内寂聴が「お盆は亡くなられた方が添乗員に連れられて団体旅行しながら帰ってくる」みたいなことを言っていたが、それならもし帰省を拒否された場合添乗員の資格(旅程業務取扱管理者)を持つ私が旗を持って腕章をしめて酒を飲みながらヘベレケで帰るのもいい。(この場合門前で拒否られる可能性がある)

人は生れてから毎年歳をとることと人生の最後は死で終わるということだけは絶対的平等として与えられている。それは断ることはできない。
そして人は歳を重ねるたびに出逢いや別れを積みかさね信仰心は深まってゆく。
お盆は「亡くなった方に会いたい、会える」という人間の願望をかなえてくれる「救い」として存在し、亡くなった方と自分を繋げてくれる。
 しかしいまの世の中はデジタル化が進み、なんでも楽に済まそうとする風潮がある。墓参りも故人の写真や位牌、お墓を画面に映し出し、BGMのお経が流れる中で手を合わせるシステムもあると聞く。(この場合でもしっかりお願いごとは忘れないようだ)
そのうちお盆の迎え火送り火もバーチャル化され、携帯画面上のたいまつ(松明)にタッチ点火すると事前入力した顔写真のご先祖様たちがプライベートジェット機や新幹線、バスなどに乗って登場してくるかもしれない。もちろん課金具合でファーストやビジネス、エコノミーが用意されている。迎え火も焚けないようなアパート・団地・マンション住まいの人にとっては好都合だ。
 しかしそれではあまりにも悲しすぎる。
せっかくお盆という時間をご先祖と共有しようと思うなら、松明を焚きその火が消えるまでの時間の重み、ナス・キュウリを使いお精霊様(おしょうろうさま)を作る時間まで含めてお盆を大切なものに感じてみたいものだ。
 もし「お盆なんてどっちでもいい!あの世もないし、この世を楽しく暮らせればそれが一番。さて今年のお盆休みはどこに行くかな…」なんて考えている御仁はご注意。
向こう側(彼岸)に行ってから「本当にあの世(この世)はあったんだ!どうしよう?!」と気が付いてからでは遅いですよ。今のうちから信心信心。合掌