64(天安門事件・負の歴史)

天安門と長安街

天安門と長安街


その日、太陽が人民大会堂の陰に隠れ、オレンジ色をしたナトリウム街灯がともりはじめた天安門広場では日本に帰国する留学生のための送別会が開かれていた。
 集まった学生たちは学部こそ違え、外国に興味を持ち当時北京で流行した林檎(りんご)ブランドのジーパンを履き、小遣いを出し合い買ったフォークギターでサイモン&ガーファンクルを歌うようなワナビーな中国人の大学生だった。

 中国の大学は学校敷地内に病院はじめ郵便局や商店などがあり、いわゆる街を形成している。貧乏な学生たちはそんな構内の薄汚れたレストランの飯館(ファングアン)で集会を済ますのが常だが、外国人留学生の送別会ともなれば関係者の目が気になるのか、広い天安門広場に酒を持ち寄り地べたに輪になって座り送別会を開いた。

天安門広場衛兵

天安門広場衛兵


関係者とは中国共産党員のことだ。
現在の中国も当時と同じだが、学校の運営は校長はじめ教員が行い、指導・決定権は共産党書記が担う。当然校長よりも立場は上だ。違うのは当時(天安門事件以前の70・80年代)に大学は就職活動と言うのもがなく、4回生になった学生は共産党指導部が決める職場に就職することになる。現在では考えられない「分配」(フェンペイ)と呼ばれる制度だった。
 そのため当時の大学生はより良い条件の職場に就こうと真面目に授業に通い、恋愛は勿論のこと外国人との交友関係まで調査され分配が下された。

 天安門広場に集まった10数人は私の友人。そう私の送別会だった。
その中には私が生涯を通じて親友と呼ぶことが出来ると思っていた友(Hと呼ぼう)も、盛り上がる座円の外側で静かに座っていた。
 Hと知り合ったのは私が北京に行ってまもなくの頃、当時娯楽として学校のグランドを会場に催された野外映画上映会を一人で見ている時だった。
 それ以降彼は私の中国語の先生になり、私は彼に日本や外国の話をする社会科の先生になった。学部が違うため一緒に授業を受けることはなかったが、平日の放課後は図書館で集合し、夜は彼の宿舎に行き同室の同学8名(当時の大学は全寮制で二段ベッド4つの8人部屋で、机もないため自分のベッドだけがパーソナルスペースだった)と私が中国に持ち込んだ短波ラジオを皆で聞いては外国の音楽や政治、そして当時はまだ発展途上国で「眠れる獅子」と言われた中国の閉鎖的社会の話で盛り上がった。

切断されたテレビ画面

切断されたテレビ画面


日本では考えられないことだが当時の中国は夜10時には断水・停電するため我々の集まりは9時半に半ば強制的に終了した。
彼らは間違いなくリベラルな人間だった。
8人だけの空間で、強権統治する共産党を批判し、分配によって自由意思で決められない自分の将来に不安を抱き、共産党による一党独裁への不満を口にしては中国の民主化を唱えていた。
送別会から3年後の1989年6月4日。あの忌まわしい事件が起こった。
「64」と呼ばれる天安門事件だ。
 中国共産党による一党独裁政治に不満を募らせていた当時の学生らを中心とする民主化運動のデモ隊に、中国共産党・政府が人民解放軍を使って武力弾圧したあの事件だ。
 事の発端は私が帰国した直後の87年、一部で起こった学生運動に理解を示した当時の総書記であった胡耀邦が責任を取らされ総書記を辞職し、階級も降格されたうえで89年4月に北京で病死したことだった。
87年の学生運動には、送別会で天安門広場に集まってくれた彼らも加わっていたことは手紙で連絡を取り合っていた親友Hから聞いていたが、しかしその彼からの連絡も89年6月4日未明に起きた天安門事件を境に途絶えた。
 それ以降彼とは30年後の今でも音信不通となった。
ことに対しては沈思黙考し冷静な結論を導き出す親友Hではあったが、天安門事件デモ隊に彼も加わっていただろうと言うことは彼と過ごした時間が容易に私をそう思わせた。
 以降私は中国を嫌厭するようになった。老百姓(一般市民)ではなく中国共産党が支配する国が嫌いになった。
人民英雄記念碑

人民英雄記念碑


天安門事件から30年後の今年6月4日私は複雑な気持ちで北京にいた。
当時、海外メディアに対して報道規制を敷き、あの事件は「一部が起こした暴動」と処理した共産党の元では特別な式典も追悼式さえも行われず普段と何ら変わりのない北京天安門広場だった。
そんな普通の北京の日常を見ていたら、あの日、あの夜、ここ天安門で起こった学生たちによる民主化への熱き要求デモが、中国共産党と人民解放軍によって踏みにじられ葬り去られ、何千人という罪なき名もなき学生たちが虐殺されたことへの怒りがこみ上げ身体が震えた。
 私はその現場にいること自体いたたまれず、憤りと悲しみをこらえながら広場を後にホテルに戻ると、詮方なくもテレビチャンネルをNHKの海外放送に合わせぼんやりとニュースを見た。しかし暫くすると突然放送が中断されテレビ画面は黒くなり音声も消えた。
 平和ボケした日本ではにわかに信じがたいことだが、中国では現在でも自国にとって不都合な国際ニュースは遮断され、通常放送も実際の時間からから5~10分遅れで放送されている。もちろんインターネットでもキーワード「天安門事件」「64」「8964」と検索しても何一つ出てこない。言論の自由さえも共産党に統制され、共産党が主導する改革開放路線だけが真実と言わんが如く独裁政治を行っている。
 天安門事件を民主化運動と認めず暴挙とみなし、以降最高指導者が鄧小平、江沢民、胡錦濤、習近平と変わっても閉ざされた政治が続くばかりか、今日の習近平にあっては長期独裁政権を築こうと画策している。
党員使命

党員使命


入党の誓い

入党の誓い


党員の権利

党員の権利


党員の義務

党員の義務


 中国(政府)には良い你好(ニーハオ=こんにちは)と悪い你好が存在する。
誰とでも会えば笑顔でニーハオ!というが誰も腹の内は解らない。
30年前に民主化運動を武力で鎮圧した共産党は、事件後には笑顔で日本にすり寄り経済支援を受けながらも裏では南京事件をプロバガンダに自国民をまとめ、列強の仲間入りを成し遂げるや否やアメリカと対峙するほどの国際競争力を持ち始め、今日に至っては習近平国家主席は皇帝の如き振る舞いで盤石の一党独裁体制を築いた。
国政においても企業においても教育の場であっても中国共産党が一番であり、共産党員の指導と行いが正義になっている。
その証拠に政府の息がかかる企業の壁には共産党員の義務・権利・使命・誓いがスローガン(中国共産党はこのスローガンが大好きだ)として貼られている。

 「マルクス主義・毛沢東思想・鄧小平理論を学び、習近平による新しい社会主義思想により共産党に忠誠を誓い国家そして人民のために努力することを本領とする」
 マルクス主義、毛沢東思想、鄧小平理論…時代錯誤も甚だしい。

いま香港では「一国二制度」を揺るがしかねない「逃亡犯条例」への反対デモが激化し、先週末には200万人と言われるデモが起きた。
この香港の民衆による一連の動きは天安門事件の初期と酷似している。
2014年に起きた香港での民主化運動「雨傘運動」は鎮圧されたが、天安門事件から続く人民の遺恨は強制的な思想改革やプロバガンダ、そして歪曲した中国共産党思想ではこの香港デモは鎮圧出来ないしまた鎮圧されてはならない。

昔、私にとっての中国は未知の国であり悠久の歴史に彩られた憧れの国だった。
しかしあの64(天安門事件)以降中国は忌まわしい国となり、私は中国語を学ぶことを止め中国語を話すことも嫌になった。

無名の反逆者

無名の反逆者


毎年日本では6月4日が近づくたびに天安門事件のニュースが取り上げられ、そして必ずと言っていいほど流れる事件直前に撮られたであろう有名な一枚の映像(写真)がある。
「無名の反逆者」と名付けられたその映像は、デモ隊が集結する天安門広場に向け走行する軍の戦車を停めようと一人で立ち向う男性の映像だ
 容姿から推測するに学生だろうか。
私はその映像を見るたびに天安門広場で送別会を開いてくれた大学の友人達、そして北京駅のプラットフォームで「また必ず会いましょう!」と言って見送ってくれた親友Hの顔を思い出し言葉では到底言い表せないほどの怒りと悲しみで胸が締めつけられる。

1989年当時の学生デモ隊へ、そして2019年の香港デモ隊に私はこう言いたい。
私も遠い日本から君たちを応援し、共にシュプレヒコールを挙げている。と。